子育ての後悔に終止符を|悔やむより”智慧を探そう

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子育て中、感情が爆発してしまったことはありませんか?

その後、強く接してしまった自分を責め続けていませんか?

私にも、そんな経験があります。

自分に余裕がないのではなく、「なんで聞いてくれないの?」「なんで通じないの?」

という思いが重なって、どうにもならなくなった瞬間でしたそんな中、

「智慧(ちえ)」という言葉に出会いました。

その意味を調べていくうちに、「これって子育てにも活かせるのでは?」と気づかされました。

今回は、後悔の中で出会った“智慧”という考え方と、そこから得た気づきをお伝えします。

過去を悔やむ心に、少しでも光が届きますように。

子育て中の「感情の爆発」は誰にでもある

私が子どもを感情的にきつく注意してしまった日

子供を強く叱ってしまったきっかけは、4歳の時の話。

何度も幾度となく、「これは危険だからダメでしょ」「足でおもちゃを踏まない!」などの注意喚起を

しているにも関わらず、何度も繰り返してしまう日々でした。

「なかなか話を聞いてくれない」と感じてある日、感情的に言ってしまっていました。

その後は「自分に対して落ち込む」「酷い親」「育てる自信がない」っと、すごく落ち込んでいました

立ち直るにも時間がかかっていました。

フラストレーションも抑えることができなかった自分に、大きな「×」がついているような気分でした。

誰にも言えなかった「感情的に行動した」という事実

誰にも言うことはできませんでした

なぜなら、周りを見ると「そんなキツイ親はいない」と思っていたから。

でも、誰かに共感や慰めてほしいと感じていました。

思い切って「園長先生に話してみよう」「何か変わるかもしれない」と思い、話してみました。

結果は「×」をつけられた気分になりました。

その後は気分が元に戻ることなく、1週間近く不眠で急に泣くこともありました。

長男が3歳過ぎまでは仏教系のこども園に通っていたので、園長先生との心の距離が近く、

よく世間話や相談事などをしていました。

「こども園はそういうもの」というイメージが私の中では強く、

「今の園(一般法人)の園長先生も話を聞いてくれるかな」と思っていました。

共感・安心感などはなく「×」をつけられた気分になった他、

「公的機関や同じ法人の窓口に相談するように」だけでした。

受け取る側の私としては「肯定・共感・否定をされたいわけではない」

「それに至るまでしんどかったね」と「寄り添ってほしかった」のだと気づきました。

「智慧」という言葉との出会い

私は中学生高校生とカトリック系の学校に通っていました。

その時の習慣で習慣で、何かに悩んでいたり落ち込んでいるときは聖書を引いたりしていました。

結婚後は元主人が僧侶で夫婦で入寺していたので、「阿弥陀様だったら、何と考えるのかな?」

っという視点で、いろいろ調べたりしていました。

その中の「アーナンダとブッダの説法って育児に使えるかもしれない」と感じたので、

紹介したいいと思います。

アーナンダとブッダの説法に救われた

学生の頃・寺嫁だったころの癖で、自分の悩みに対して仏教・宗教問わずいろいろ調べていました。

すると、アーナンダとブッタの説法を見つけ、「えっ、仏に仕える人も悩んだりするの?」と感じました。

そしてそれに対するブッタの説法を読んでみて、「そうなのか」と思うことがあったので

簡単に紹介したいと思います。

このブログを読んでくださってる方で、何かに対して「後悔」したことがある、

または、現在「後悔していることがある」などの経験は1度はあるかと思います。

人は何故、後悔をするのかというと、過去に対して「思い・執着」があるからだそうです。

その感情が、心を疲れさせているのだそうです。

言われてみれば、私も「やり直しができないし・取り消すことができない気持ち」(思い)を、

いつまでも考えたり(執着)していたと思います。

また、「自分が許せない」という思いもありました。

(悩んでいるときって、自分自身に否定的だし、

自分を受け入れるのが嫌になってしまっている。。。。(泣)

ここでのポイントは「”悔いを手放す=忘れる”ではない」

私の中のイメージで「手放す=忘れる」というようなものがありました。

でも「忘れる自分が嫌」という思いがある中で「手放す=糧にする」と聞いたときは心が落ち着きました。

(無理に忘れなくていいんだ。。。時間薬で治すとかではないんだっていう感覚だった。。。)

では「糧」「学び」「智慧」にするとはどういうことなのか、次にまとめてみました。

後悔を責めるのではなく「学び」に変えるという視点

今だから感じる事ですが、学校で歴史の勉強をしているとき、私は暗記が苦手でした。

でも「過去を学んで現代に活かす」ということって、「糧にする」ということだったんだと気づきました。

つまり「歴史を学んで、糧に変換する訓練をしていたんだ」ということかなと私は感じています。

「後悔・悔い」に対して「なぜ悔いているのか、原因は何なのか、どう解決すればよかったのか」

「自分にはどのような解決方法があるのか」

「次回同じようなことがあったら、どのように対処すればよいのかなどを考え、

それを自分で受容することが糧なのかなと思います

そして「受容」とは「自分自身をまず受け入れる事(自己受容)」

自分の長所・短所・失敗・成功・感情・容姿などに対して

「自分はこんな人間」と否定やレッテルを貼るのではなく、「深く理解し受け入れる事」です。

今、過去をどう見つめているか

あの日の自分を責める気持ちは今もある

時に、寝る前に思い出しては、自分を責めるときもあります。

クヨクヨする日もあります。

父母とぶつかる時もあります。

ですが一歩引いて自分を見ると「それだけ考えてもがいているんだな」「頑張ってるな」と感じます。

自分を責めるのが悪いわけではないと思います。

時間は進む中で、いつまでも立ち止まることに対しては、「やめた方がいいよ」とは思います。

それでも「智慧」に出会って前を向けた

寺嫁の時に子供たちは「しんぽち様」と呼ばれていました。

意味を調べるとなかなか深く、「跡継ぎ」という意味ではありませんでした。

「菩薩になり教えている」という言葉が専門の辞書にありました。

これを知ったとき、私に1つの智慧が見えました。

「子供に育ててもらう」「子供と一緒に親は育つ」という言葉がありますが、

「子供(菩薩)が親に教えている」というニュアンスの方が私はしっくりきたし、

これが智慧の1つかなと感じました。

どれも同じように見える言葉ですが、私の中での違いは「育てる」と「教える」。

「育てる」は命に関する言葉。

「教える」には「説明・伝える・示す」などの言いかえができます。

つまり私が言いたいのは「子が身をもって親に示して・伝えている」ということです。

だから子供は「喜怒哀楽」で感情を表し伝えているんだなと感じました。

悔やんでいるあなたへ、伝えたいこと

誰かに否定されても、あなたが悪い親だとは限らない

誰かに否定されても、「自分は悪い親」だと思わないでください。

一部分だけのエピソードを見たり聞いたりして否定をしても、「他の面も見て決めているの?」

っと私は思います。

そして1人に言われて「自分で自分を否定したりレッテルを貼っている」だけかもしれません。

「誰かに否定されたから、みんなに否定されている」と感じるときもあると思います。

まずは、そのように感じるんじゃなく「事実に目を向けて、智慧をもって悔いを手放す」ことに

目を向ける方がいいと思います。

世界80億人の人口の1人に言われたから、世界があなたを否定しているわけではありません。

過去ではなく「これから」を見るために

「過去を振り返るな」ではなく「過去から智慧を見つける」。

「先だけを見て進む」ではなく「智慧を片手に進む」。

世の中にはいろんな「智慧」があります。

いろんな智慧に出会ってください。

いろんな智慧をカバンに入れれば、人として成長もするし、進むべき道を照らしてくれます。

~最後に~

同じように苦しんでいる人へ。

「一緒に歩こうね」と、この記事を通じて伝えたいです。

子育てにおいても、仕事においても活用できるんじゃないかなと思います。

子育てと言っても、子供も1人の人。

「子供」という名に部類されているだけの事。

人(大人)と人(子供)がぶつかれば、感情的になるのは当たり前なのかなと感じます。

仕事でいうと、人(大人)と人(大人)。

ぶつかる内容が違うだけで、やっていることは一緒。

「自分は悪い」と否定する前に、「そこに至るまで、大変だったね」と自身に言ってください。

教育の仕事に着かれている先生へ。

最初から否定だけしないでください。

最初から「悪いよ」って決めつけないでください。

「育児・子育て」は「優しさ・綺麗ごと」だけでは限界があります。

親としては「今までやってきたことが全て否定された」ように感じるときがあります。

結果だけでなく、それに至るまでの話を聞いてくれると嬉しいです。

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世界中のすくすく育つ子供たちに乾杯!

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